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  • 2014.12.18

GK金沢克彦コラム #26

GK金沢コラム連載第26回!! 「『ゴング』創刊1号本格始動」

画像は『ゴング』復刊0号です
復活『ゴング』第1号の制作が始まり、
『週刊ゴング』時代に思いを馳せるGK!!

 さあ、始まった始まった! 来年1月23日発売の『ゴング』創刊第1号の制作がいよいよ本格的に本気に、逃げ場もなく始まった。一昨日の夜、編集部の井上崇宏くんから台割(進行表)がメール送信されてきた。こういった細かい仕切りはすべて井上くんがこなしてくれる。そこへ私が2~3注文というか、提案のメールを送る。ただし、これをもって決定ではないところがまたおもしろいのだ。

 

 これは週刊と月刊の違いもあるのかもしれいが、週刊誌に携わっていると、なかなか台割を崩すことはないし、できるかぎり台割どおりに埋めたくなる。当初の決まっていたページを大きく差し替えたり、前半カラーページと後半カラーページを入れ替えるなど、大胆な“手術”を行なう場合は、たいてい事件が起こったときにかぎられてくる。

 

 たとえば、UWFインターのエース・髙田延彦が試合後に突然“引退”の二文字を口に出したとか、小川直也が橋本真也にセメントを仕掛けたとか、温厚なエル・サムライが試合中にマジギレし客席を蹴散らして大暴れしたとか……。これらがプロレスらしい事件であったとすれば、悲しい事件もある。もちろん、選手が亡くなったとき。ジャイアント馬場さん、ジャンボ鶴田さん、福田雅一さん、冬木弘道さん、橋本真也さん、三沢光晴さん……病気であったり、リング禍であったり、要因はさまざまなのだが、突然の悲報はどのような記事も吹き飛ばし表紙と巻頭カラ―を飾ることになる。だれもなにひとつ口をはさむ余地のない事件が“死”なのである。

 

 そこで、私が『週刊ゴング』編集長を務めていた時代を振り返ってみる。5年と9カ月にわたり、私はゴング編集部の中で“お山の大将”を演じていた。猿山のボスと言い換えてもいい。いま思い返せば、お山の大将に君臨していたわけではなく、やはり演じていたのだと実感する。なぜなら、もともと権力志向というものを持ち合わせていなかったから。正直に言うなら、小佐野景浩さんが編集長で、自分が副編集長の時代がもっとも楽しく充実していた。出張で新日本の地方大会の取材にも行けるし、実売数が落ちてこようと責任を追及されることもない。それに小佐野さんは気配りの人でもあるから、新日本関連の表紙は私に作らせてくれた。現場を見ている人間には敵わないという思いもあったのかもしれない。だから小佐野編集長体制にあった4年半、やはり『ゴング』は新日本を核として勝負していたから新日本表紙が多く、だいたい3冊に1冊は私が表紙の写真をチョイスし、キャッチコピーも考えた本となった。この間にけっこう自分のセンスが磨かれたのではないかな、と思う。

 

 ひとつ、強烈に覚えている思いでがある。『週刊プロレス』を発行するベースボールマガジン社がターザン山本編集長による陣頭指揮のもと、東京ドームでプロレス・オールスター戦『夢の架け橋』を開催したのだ。それに敢然と反旗を翻したのが、WARの天龍源一郎。SWS時代、週プロ(というよりターザン山本編集長)から大バッシングを受けた怒りは収まっていなかった。それに同調したのが当時、新日本の現場監督だった長州力。同日の同時刻、WARは後楽園ホールで興行を開催し、新日本から『夢の架け橋』に橋本vs蝶野の極上シングルマッチが提供されたにも関わらず、長州はオポジションのWARに出陣し天龍とタッグを結成。さらに、そこに敵対するのが反体制軍の越中詩郎率いる平成維震軍と、こちらのメインカードも極上だった。

 

 先ほどの強烈な思いでというのは、試合のことではない。天龍が『週プロ』サイドからのオファーを蹴って、最初から押えてあったWARの興行を強行することを決定したときのこと。もちろん、小佐野さんは天龍番であったし、当時の私は長州番であり越中番でもある。自ずとゴングの進む道は決まっていた。それを如実に示す表紙の絵は小佐野さんが選んだもので、場外の天龍がリング上の相手を睨みつけるド迫力のイイ写真だった。キャッチコピーは忘れたのだが、とにかくその写真とキャッチコピーを小佐野さんが私に見せてくれた。「どうかね? 金沢クン」。

 

 絵は抜群だったけど、コピーが弱いと思った。私は小佐野さんが持ってきてくれた原稿用紙にすぐさまべつのコピーを書いた。これしかない! 瞬間的に浮かんだのである。

 

「俺は金では動かない!!

 

 これしかないだろう。SWS時代、さんざん金で動いたとターザン氏からたたかれた天龍のリベンジのセリフ。ベースボールマガジン社が用意した後楽園ホールのキャンセル料も含む多額のギャラ。それを天龍は蹴って、意地を見せたのだから。

 

「うん、そこまでいっちゃうか……そうだね、いっちゃおうか!」

 

 そう言って、小佐野さんは私の考えたコピーのほうを表紙に採用した。これはべつに自慢話ではない、なにを言いたいかというと、私は責任を被る立場にないからバランスなど考えないし、気配りもしない。自分の感性で、ひたすらいちばんインパクトのある表紙を考え作っていればよかったのだ。

 

 その後、自分が編集長になってみて、小佐野さん気持ちも少しは理解できるようになった。誰だって嫌われたくないし、プロレス専門誌である以上、業界に対して中立であることは理想の姿である。会社に対しても業界に対しても責任を被る立場というのは辛いもの。だから当初、「絶対に編集長だけはやりたくない!」と思っていたものだ。その矢先の電撃人事によって、私は大将となった。

 

 このお山の大将は、部下にとってそうとう怖い存在であったようだ。機嫌が悪いときの私が編集部に入っていくと、サッと空気が変わったらしい。それまで、馬鹿話で盛り上がっていた連中の口がピタリと止まる。お山の大将の機嫌をこれ以上損ねたら大変だからだろう(笑)。ただ、私が本当に部下を怒るときというのは、同じミスをニ度繰り返したときと、仕事とは関係なく一般常識から外れた行動を目にしたり、それを感じたりしたときだけだった。

 

 だから、本当にお山の大将だったわけでなく、やはり演じていただけだった。部下の前では絶対に弱味を見せないこと。編集部のだれよりも仕事をこなすこと。そこで生じる責任をすべて被ること。それだけでいいと思っていた。

 

「俺は金では動かない!!

 

 その手のキャッチコピーは私のなかで日常的なものとなっていた。自分が正しいという信念を持っていれば、誰に嫌われようと気にすることはない。そう思って本を作り続けていた。これも決して格好をつけているわけではなく、私にはその方法でしか編集長をこなすことはできなかったのだ。

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