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  • 2014.09.25

GK金沢克彦コラム #14

GK金沢コラム連載第14回!! 「片山明がまた一歩前に踏み出した日」

GKに届いた片山明からの突然の電話

「あのう、明日の岡山大会を観に行こうかな?って思っているんです」

9・21神戸ワールド記念ホール大会、9・23コンベックス岡山大会と新日本のシリーズを締めくくる2大ビッグマッチを取材してきた。もともと、神戸でテレビ収録のテレ朝『ワールドプロレスリング』のほうはローテーションで解説に入っていなかったのだが、岡山でのサムライTVディレイ中継(当日ニアライブ中継)の解説オファーをもらっていたので、それなら流れをしっかり把握しておこうと、神戸から始まる3泊4日の出張に自分で切り換えた。

 

 すでにファンならご存知だと思うのが、両大会とも超満員にしてリング上にもドラマがギッシリと詰まっていた。さらに、この2大会の結果を受けて、1013両国大会の全10戦のカードも決定。まあ、とにかく新日本の一気呵成ぶりは凄まじい。メインのIWGPヘビー級選手権(AJスタイルズvs棚橋弘至)は当然として、セミの東京ドーム・IWGPヘビー級王座挑戦権利証争奪戦(オカダ・カズチカvs内藤哲也)もタイトル戦として括るなら、じつに7大タイトルマッチ。すでに超満員札止めに確定マーク付きと言っていいだろう。

 

 さて、いつもならここで神戸&岡山大会を振り返って総評をするところなのだが、私個人にとってリング外での嬉しい誤算、嬉しいメインイベントが待ち受けていた。大会の空き日となる22日、私は大阪に戻って宿泊している。神戸に残る、先に岡山に入るという選択肢もあるのだが、大阪には知人、友人が多くいるし、せっかく関西方面に来たのだから大阪ミナミのプロレスリングバ―『カウント2.99』に顔を出しておきたいと思ったのだ。当日、朝から電話の着信が何件かあった。そのうち、3度も着信のあった人物が片山明。有料サイト『ビッグファイト』に会員登録するぐらいのファンならご存知だろうと思うが、一応彼の略歴を紹介しておく。

 

 片山明選手(以下、敬称略/引退はしていないので選手をつけた)は、1985年1月に入門テストに合格し、新日本へ入団。その後、3月に大矢健一(現・剛功)、4月に松田納(現エル・サムライ)、5月に飯塚孝之(現・高史)が入門してきた。デビューのほうは、大矢、片山、松田、飯塚の順番。だから、この4人が同期入門となるのだが、当時の新日本はタテの関係がいまより厳しかったこともあり、片山と大矢が同期、松田と飯塚が同期という見かたをされていた。

 

 彼らのすぐ上の先輩にあたるのが、闘魂三銃士(橋本真也、武藤敬司、蝶野正洋)、船木優治(現・誠勝)、野上彰(現・AKIRA)、リッキ―・フジで、そのさらに1年上には素顔の獣神サンダ―・ライガ―がいた。また後輩となると、まる1年後に鈴木実(現・みのる)が入門しており、同時期に浅井嘉浩(現・ウルティモ・ドラゴン)が通いの練習生として新日本道場で同じ釜の飯を食っている。

 

 片山は170㎝、95㎏という体格。小柄だったが、頑丈な肉体を持っていた。いまの選手に例えるなら石井智宏を少し細く筋肉質にした感じのボディ。得意技は相手に頭から突っ込んでいく片山ロケット。いわゆるトぺだった。これもいまに例えるなら本間朋晃が最近多用する“こけしロケット”とほぼ同様の技だ。不器用だったけれど、小さな身体で全力ファイト。そんな片山だったから、若手時代からケガが絶えなかった。両肘、左肩、顔、膝と大ケガで何カ所も全身にメスを入れた。

 

 当時、トレーナー制度やリングドクターの常駐がもっとしっかりしていれば、これだけ片山がケガに悩まされることも、身体にメスを入れる必要もなかったと思う。だが、欠場すればその分だけ周りに置いていかれると焦った片山は、怪我を隠したり、だましだましで必死にリングに上がるほうが選択した。限界を感じたのが1990年の初め。前年末に道場で練習中に左膝の内側靭帯を断裂した。それでも試合に出続けた片山だったが、3月の契約更改時にケジメをつけた。退団して、しっかりケガを治しメキシコにでも渡って再起したい──漠然とそう考えていたのだ。なにより、たび重なる欠場で新日本のお荷物になることが耐えられなかった。片山は人柄がいいから、当時の幹部選手たちにも可愛がられていたし、温情をかけられていた。それが辛かったし、自分自身の重荷となったのだ。

 

 それから3カ月で運命の転機が訪れた。新興勢力SWSに誘われて、左膝が治ってからリング復帰という条件のもと、SWSに入団。11月に復帰してからはジュニア戦士として水を得た魚のごとく暴れまわった。ところが、92年1月の大阪大会でアクシデントに見舞われる。第1試合のタッグマッチでトップロープ超えのトぺスイシ―ダを放った際に、場外マットへ脳天から垂直に落下してしまった。第4頸椎脱臼骨折。命に関わる重傷を負った末に、車椅子生活を余儀なくされた。

 

 ICU(集中治療室)に入ってすぐにSWSの選手、関係者が多数駆け付けた。3日後にはライガ―が訪ねてきた。橋本真也もやってきた。事実上、片山は選手生命を断たれた。それ以降、岡山県内のリハビリテ―ションセンターの近くに自宅を構え、京子夫人と二人三脚の暮らしをしてきた片山。気持ちだけはプロレスラーだったから、無理と分かっていても復帰を信じて努力した。そして95年、岡山に巡業に来た平成維震軍興行。そのときのメンバーである越中詩郎や蝶野正洋が、巡業バスで片山の自宅まで激励にやってきた。それが新日本プロレス関係者との直接にして最後の接点。選手で現在まで付き合いが続いているのは同期の大矢と先輩の佐野直喜(現・巧真)だけである。

 

 その片山を公に引っ張り出したのが、私だった。「どうしても片山明の取材をしたい!」と宝島社のKさんに申し入れ、片山を説得してもらったのだ。しばらくして、「大矢選手と一緒なら」という条件付きで片山から取材OKの返答をもらった。2010年5月、岡山市内のホテルで私は19年ぶりに片山と会った。そのときのインタビューをもとに『元・新日本プロレス』という本を出版し、以来、彼とは頻繁にメール交換をするようになった。片山自身の中でも何かが変化したようで、講演の依頼を受けたり、新聞、テレビメディアの取材まで受けるようになった。もう自分を隠すことはなかった。だけど、たったひとつ、いまでも大好きなプロレスはテレビやネットで観戦するだけ。とても会場に行く気にはなれないようだった。

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